郡上八幡は長良川の上流に位置し、奥美濃の山々から流れ出た吉田川、小駄良川など三つの川が合流するところにあります。
この恵まれた地形と、長い歴史の中で郡上びとによってはぐくまれた清流の文化は郡上八幡の貴重な遺産です。そして これらは、環境省によって名水の町の指定をうけたゆえんでもあります。
ここではそんな郡上八幡ならではの水風景をご紹介いたします。
長良川最大の支流で市街地の中央を流れます。宮が瀬橋からは川底の石が数えられるほど透きとおった水の流れと、緑の山の頂きにそびえる郡上八幡城が眺められ、新橋は渦巻く瀬めがけて子供たちが橋の上から飛び込むことで知られています。
川岸づたいに「宮が瀬こみち」という親水遊歩道があって、川風を頬にうけながらのんびり散策をするとこの町の人々の暮らしがいかに自然と一体となっているかが分かります。
郡上八幡特有の水利用のシステムです。湧水や山水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽のうち、最初の水槽が飲用や食べ物を洗うのに使われ、次の水槽は汚れた食器などの洗浄。
そこで出たご飯つぶなどの食べ物の残りはそのまま下の池に流れて飼われている鯉や魚のエサとなり、水は自然に浄化されて川に流れこむしくみになっています。
そのほとんどは個人の家の敷地内にあるのでなかなか目にふれることはないですが、観光用に設置されたものが町のあちこちにあり、町歩きで乾いた観光客のノドをうるおすのに一役かっています。
郡上八幡旧庁舎記念館の横にある鯉や川魚が泳ぐ豊かな用水です。 民家の裏手を流れ、夏になればスイカが冷やされオトリに使う鮎が篭に入れてあったりする光景も。
洗濯場が3ヶ所あり近所のおばさんたちの社交の場でもあったりするのですが、最近はカメラなどを向けられるのを嫌がって、その数は昔と比べると減ったみたいです。
でも川に魚がいる、川の水でものをすすぐ、なんてことは少し前まではごく当たりまえのことでしたが、それが名所のなるなんて少し哀しい気がしませんか?
環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水です。しかし本来は、由緒正しき史跡。
文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました。
「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」
「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」
惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌が残されています。
城下の碁盤の目の町割りにそって縦横に流れる清冽な水。これは寛文年間(1660年頃)に城下町の整備をすすめた城主の遠藤常友が防火の目的のため4年の歳月をかけて築造したものです。
家々が密集し、2度の大火の見舞われた郡上八幡は火事にはとても神経質でした。今でも家々の軒先に下がる消化用バケツはいわばその伝統のなごりともいえます。
御用用水はその主幹水となって城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給したことからこの名があります。
御用用水と平行して柳町を流れます。水利用の仕組みはいたって簡単で、各家々が持っている堰板をはめこんで水位を上げ、洗い物などをするというもの。
当番制の水路掃除はもとより、水をはぐくむ山林管理や水路の維持までひとつの掟のような厳しいルールでこの伝統は守られてきました。吉田川にそそぐ乙姫川、最勝寺用水をはじめ町のいたるところでこのような水利用の風景は見られます。
郡上八幡の町並みをごらんいただく上でその特徴のひとつに川岸の風景があります。
川にせり出すように建てられた3階建て、4階建ての家々は窓から釣竿を出せば魚釣りができるほど。背後まで山が迫るという立地条件の土地が多いこの町の苦肉の家造りといえます。
しかしながら現代のようにエアコンなどの無かった時代には川風の入る家は夏にはたいへん重宝されました。また家から直接水辺に下りられることで洗い物や晒し物、オトリ鮎の飼育など日常生活に川との関わりは深く溶け込んでいったのです。
深い洞窟から湧き出す清冽な水が一条の滝になって落下するのが乙姫の滝。滝の高さは5メートルほどですがその水はいわば100%天然のミネラルウォーターです。市街地から小瀑や天狗岩と呼ばれる巨岩を眺めながらの400メートルほどの山歩きはちょっとした渓谷探勝の気分になります。
(右写真:右の洞窟から水が湧き出しています。滝ツボへの小道はやや足場が悪いので注意が必要です。)
郡上八幡から北へ向かう旧越前街道(別名、上の保街道)が洞泉寺山の麓をぐるりとめぐる辺りが尾崎町
ここは緑豊かな背後の山から湧き出る6ケ所の水舟や井戸が「組」と呼ばれる昔ながらの共同体で維持されています。
住民の伝統的な水利用として宗祇水とともにしばしばテレビなどに登場するところです。
尾崎町の中ほどには延命地蔵尊が街道を見下ろすように鎮座され、枡形町にある延命地蔵尊とともにここがかつての城下町の入り口であったことを示しています。
疫病や厄が町に入らぬようにという昔びとの祈りの表れです。
街道の山側にほぼ50メートルおきぐらいにある3ヶ所の水舟は、名所といった類いのものではなく、人々の日々の暮らしを垣間見るような感じのものですから、家々の軒下に隠れるようにあります。
車で通過するだけではつい見逃しがち。
家並みを注意しながら歩けば水舟と3ヶ所の共同井戸が見られるはずです。
この町で400年前に生まれた水舟は、山の湧き水をまず飲み水に、次に野菜や食器洗いに、水を上手に使い分けます。その知恵と心。私たちのお手本です。」
大竹しのぶさんのやさしい語り口が印象的だったダイワハウスグループのコマーシャルに登場する水舟のうちの2ヶ所はここで撮影されました。
八幡神社の裏手に湧く城山の伏流水で今でも近所の人たちの生活に利用されています。
またここから吉田川の川辺に石段を下りたところにも別の湧水があり、今ではすっかり名所となった宗祇水も東常縁と飯尾宗祇が別れをおしんだとされる時代にはおそらくこのような素朴な湧水であったと思わせる風情です。
近年すっかり有名になった新橋からの飛びこみですが、昔から新橋から飛びこむことは、郡上八幡に生まれた子供たちにとっては、ひとつの通過儀礼のようなものなのです。
小さなときから川に親しみ、最初は低い岩から飛びこみ、三角岩、サンリキ岩、学校橋、やがて新橋と順に高いところから飛びこんで度胸をためしていきます。その中には、自然に学んだ暗黙のルールがあります。
増水のときは飛び込まない。川は時おり水温が低いから、必ず体を水温に慣らす。仲間の子供は着水点の周囲に誰もいないことを確認して合図を送る。
そしてあくまでも自分の責任で飛びこみます。無理と感じたらやめるのも勇気のひとつ。これは郡上八幡の子供たちの伝統文化でもあるのです。
単にスリルだけを求めて安易に飛び込む観光客の方がいらっしゃいますが、橋の高さは12メートル、ビルの5階のベランダの高さに匹敵します。
万が一ケガでもされて、事故になったら取り返しのつかないことになります。そしてこの町の水の文化を壊すことになりかねません。
新橋の欄干から水面を見下ろして、子供たちの感じる怖さをちょっと味わってみる。降り注ぐまわりの子供たちのまなざしと蝉しぐれを想像してみる。旅の思い出はどうぞここまでになさってください。
無事が何よりのおみやげです。郡上八幡の子供たちと観光協会からのお願いでした。