= お城 =山内一豊と千代の像= インフォーメーション
郡上八幡城は古名を積翠城、郡城、虞城といい、郡上八幡市街地の北東にそびえる八幡山(古名牛首山)にあります。山の南側と西側にそれぞれ吉田川と小駄良川が流れて天然の濠(ほり)とし、急峻な山容は、防御に高く、山麓には城下町を構築する平地もそなえるという極めて理想的な条件を揃えていました。
城郭構造は平山城。天守構造は、木造の模擬天守(再建)で独立式層塔型の4層5階となっています。この他に2つの隅櫓、高塀、櫓門が再建されています。
それでは、郡上八幡城の歴史を紐解いてまいりましょう。近年見直された新たな史実もふまえ、歴史ファンやお城ファンに対応できる詳しい説明となっています。
監修:高橋教雄(郷土史研究家)
(古名) 積翠城、郡城、虞城
中世、郡上一円は篠脇城(現 郡上市大和町)を居城とする東氏によって支配されていました。戦国時代末期 天文10(1541)年、東氏は郡上八幡の南東にそびえる赤谷山(現 東殿山)に赤谷山城を構えて居城を移しますが、永禄2(1559)年に遠藤盛数によって攻撃を受け滅亡します
その赤谷山城の戦いの際、遠藤氏が吉田川を挟んだ対岸の牛首山(現 八幡山)の山上に陣を敷いたのが郡上八幡城の起源です。
盛数の長男慶隆がその跡を継ぎ、永禄9年(1566年)にこの牛首山の山上に城を築きました。戦国大名の多くが重用した陰陽学の「北へ高く、南へ低い。東から水が運ばれ、西から食料が届く」という四神相応の地であると考えたためです。慶隆は、天下取りをめざす織田信長に従い各地を転戦。羽柴秀吉の時代となるとその旗下にあって、九州征伐や小田原の北条征伐に出向く戦国武将の典型のような生きざまでした。
しかし立花山の戦い(1583年)で羽柴秀吉と対立したことなどがきっかけで天正16(1588)年 加茂郡小原(現 岐阜県加茂郡白川町)転封となり、代わって郡上へは、西美濃三人衆のひとりとして知られる名将稲葉一鉄の嫡男貞通が城主として国入りします。
稲葉貞通は、郡上八幡城の拡張にかかり、本丸に天守台を設け、石垣を高くして、塀を巡らし武庫と糧庫を増築。井戸の掘削や二の丸を増築して居館とするなど、現在に見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎がこの時にほぼ築かれたといえます。
稲葉氏が城主となって12年後の慶長5(1600)年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。城主稲葉貞通は、西軍である石田三成側に加担を決め、徳川家康の西上阻止をめざして尾張国犬山城(現 愛知県犬山市)に入りました。
郡上追放の不遇をうけていた遠藤慶隆は、この機を逃さず、美濃の武将の多くが西軍に与するなか、東軍の加担を決断し、徳川家康に郡上八幡城奪還を申し出ました。家康は郡上の領土を与える旨の許可を下ろし、慶隆の娘婿でもある飛騨の金森可重にも援軍の命を下します。
遠藤慶隆と金森可重の両軍は、貞通の子、通孝が守りを固めている郡上八幡城に攻めこみ、これが「郡上八幡城の合戦」とされる激戦であり、関ヶ原の戦いの前哨戦のひとつとされています。
徳川家康の東軍が関ヶ原の戦いにおいて勝利すると、稲葉貞通は豊後臼杵( 現大分県)に転封となり、11月に遠藤慶隆は、家康からの郡上安堵状でもって郡上藩の初代藩主となりました。そして城をさらに強固なものとするための改修にかかります。
現存する「慶隆御一世聞書」によると、その天守普請は3年に及び、慶長6 (1601)年、春から慶長9(1603)年の秋にかけて「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とされ、寛文7(1667年)慶隆の孫にあたる3代目藩主遠藤常友のさらなる大改修が加えられて、郡上八幡城は、幕府から城郭として格上げされました。遠藤氏は、その後5代藩主常久まで城主を務め、以後井上氏が2代、金森氏が2代、と変遷していきます。
宝暦4(1755)年9代藩主となる金森頼錦の代に、藩内で大規模な百姓一揆が蜂起しました。この時代は、幕府の経済が行き詰まりを見せ始め、商品経済の発達と貨幣経済の浸透で、社会全体の貧富の格差が拡大しており、多くの百姓は、困窮する生活に加えてさらに課せられる過酷な重税にたまりかねて、決死の覚悟で幕府へ直訴、駕篭訴を執ようにくりかえして藩主金森頼錦をお家断絶へと追い込みました。
これが有名な宝暦騒動(郡上一揆)で藩主の改易だけでなく、幕府の中枢まで責任を問われることとなった江戸時代の一大事件です。
ただ一般にいわれているような封建社会の中で、藩や幕府を倒すもくろみといった革命的な激しい闘争ではなく、仁政を行うことを為政者に要求するむしろ保守的な抗議行動でした。それが高度な組織力と素朴な宗教心に支えられて、多大なる犠牲を払いながらも4年という長期にわたって続いた稀な抗争といえます。
そして江戸時代の歴史を語る上で外すことのできない幕府老中の田沼意次は、もともとこの事件の吟味と評定判決に関わったことで幕政関与の足がかりを得て、事件終了後も評定所への参加を継続し、次第にその影響力を幕府の政権の中に拡大していったのです。
宝暦8(1758)年、金森氏に代わって青山幸道が10代藩主として丹後宮津(現京都府)より入部しました。以来100年以上にわたり郡上藩青山氏は、江戸幕府の若年寄や寺社奉行などの重職を担い、明治維新に至ります。東京都港区の青山という地名は、そもそも郡上藩青山氏の江戸下屋敷があったことに由来するものです。
最後の藩主(16代目)青山幸宜の代に大政奉還(1867年)を迎えます。幕末から明治維新へたどる激動の時代、新政府率いる官軍側につくか旧幕府徳川方につくか全国の諸藩が選択を迫られる中、鳥羽伏見の戦いの戦況を知った郡上藩の国元は、新政府への恭順を示しました。
しかし江戸藩邸の郡上藩士ら45名は、「凌霜隊」を組織し弱冠17歳の朝比奈茂吉を隊長に戊辰戦争に関わっていくのでした。東北戦線を転戦し、鶴ヶ城(福島県会津若松城)の籠城戦では、会津藩の「白虎隊」と共に西出丸の守備につき、最後まで戦い続けましたが、ついには会津藩が降伏し、凌霜隊士らは国元へ移送され、藩命に背いたという理由で揚り屋(牢房)に禁錮されるという悲しい運命を辿ることとなりました。
「凌霜」とは霜を凌いで花を咲かせる菊のような強固な操の信念をあらわした言葉で、青山家の家紋 葉菊紋に由来します。 歴史の流れのはざまに翻弄された若者たちの純粋さと悲劇は、歌やドラマになって今に伝えられ、城内旧本丸と天守台松の丸の2カ所に凌霜隊を顕彰する碑があります。
明治2(1869)年の版籍奉還によって、青山幸宜は郡上藩知事となり、翌 明治3 (1870)年に「郡上城撤去伺」が出され、順次お城の解体が始まり、石垣を残して城郭の建物は全て壊されました。翌明治4年の廃藩置県を受けて、郡上藩は廃藩となり、郡上八幡城も廃城となりました。
現在の天守は、昭和8 (1933)年に全国のお城復興のさきがけとして大垣城を模して建てられた再建城です。現存する木造再建城としては日本最古の城であり、模擬天守とはいえ築城後80余年を経た天守や櫓は、周囲の自然や風景に見事に溶け込んで風格とその歴史を語っています。
文豪司馬遼太郎氏は、その著である「街道をゆく」の中で「…日本の山城典型の一つは、長良川上流の郡上八幡城である。そう信じ、この山の上に日本でいちばん美しい山城があるはずだと思いつつ登ったのは十五年ほど前…」とその美しさを筆に遺しています。
昭和30(1955)年に石垣などの城跡が岐阜県指定の史跡に、昭和62(1987)年に再建天守が八幡町重要文化財(現 郡上市文化財)の指定を受けました。
平成29年(2017年)には、「続日本100名城」に認定されるとともに、同年トリップアドバイザーによる「日本の城ランキングトップ20」の選定をうけています。
入場料金:大人400円 子供200円(20名以上の団体は割引あり)
開場時間:
3月~5月 9時から17時
6月~8月 8時から18時
11月~2月 9時から16時30分
※最終受付は閉館時間の15分前まで
山頂駐車場は無料ですが駐車台数がかぎられています。また登山道には切り返しが必要な急カーブが数カ所あるため、大型車両や乗車定員が6人以上の車輌は通行できません。
バス等の大型車両や運転に自信のない方は、山内一豊と千代の像の近くの駐車場をご利用いただき、木々の緑、鳥のさえずりを楽しみながらの15分から20分ほどの散策で登城されることをお奨めしています。
天守台の石垣のほとんどの部分は、天正16年(1588)ごろに稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積(のづらづみ)と呼ばれる工法によるものです。
一部に打ち込みハギの手法も見られますが、碁盤の目のように並べられた切石積とは対照的な石垣となっています。
昭和30年(1955)に天守台すべての石垣が岐阜県の史跡文化財の指定をうけました。
天守台真下の三段の帯曲輪はその規模の最も大きな部分であり、また城郭は防禦をその目的に築かれたものですから松の丸、桜の丸へのいずれの虎の口(入り口)からの石段もその目的をもって急で不規則に築かれています。
「登りづらい石段…」とお感じになったらそれは城郭構造の体験のひとつとお考えになってください。
郡上八幡城は、正面からの攻撃に対してはその急峻な山の地形に助けられて固く守られますが、背後のなだらかな尾根伝いからの攻撃には防備が不十分でした。そのため天守の手前に堀切り壕(空堀)を設けて有事に備えました。
山頂駐車場から尾根伝いの小道を天守閣から北へ5分ほどで 掘切り跡と搦手(からめて)跡に行くことができます。堀切りは2重構造になっており、大堀切りの方は、その高さが10メートル以上と高い防御力を持つ空堀でした。また搦手とは有事の際に城主が逃げ道として設けられるものですが、敵からの侵入に対しては、その足止めを図る目的もありました。
慶長5年(1600)の城主の稲葉貞通が犬山城在陣中の留守を狙って攻撃を仕掛けた遠藤慶隆と金森可重に対し、稲葉貞通の子である通孝が応戦した郡上八幡城の合戦では、遠藤勢が城の大手(正面)から攻撃し、援軍である金森勢は背後の搦手から攻撃を加えて、この堀切り一帯は金森勢と城主である稲葉勢との激しい戦いが繰り広げられたところです。郡上八幡城の合戦絵図にも描かれています。
作家の司馬遼太郎は、その著である「街道をゆく」の中で、
… 日本の山城の典型のひとつは、長良川上流の郡上八幡城である。そう信じ、この山の上に日本でいちばん美しい城があるはずだと思いつつ登ったのは、十五年ほど前で、春のはじめだったため雪が深く、道に難渋した。頂上の天守台へのぼると、高塀に額縁された狭い空間にびっしり雪が降りつもり、その雪の上に四層の可愛らしい天守閣と隅櫓がそこに置かれているように立っていて、粉雪という動くものを透かして見るせいか、悲しくなるほど美しかった…
優雅な破風をもつ現在の4層5階の天守閣は昭和8年(1933)に大垣城を参考に模擬天守閣として2つの隅櫓と高塀とともに全国にさきがけて再建されました。 一部の古図に描かれているようなかつての3層の天守閣とは異にしています。
しかし日本最古の再建城として年月を経た木造の城内は大胆な吹き抜けの構造や急な階段にその趣きを感じさせ、白亜の外観は、城下のどこから眺めても見事にその構図の中心におさまります。
再建された城でありながら、司馬遼太郎氏はその著である「街道をゆく」の中で「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」と評されるに至っています。
天守閣に上れば重なり合うような奥美濃の山々のうねりと狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せ、町の中央を洗う吉田川の瀬音が山頂までとどいてきます。
そしてその流れをたどれば長良川の波光が城下町の向うにきらめいて見えます。
郡上鮎の本場として知られるこの町が天守閣から眺めると町全体が鮎のかたちに見えるというのも偶然が生んだ巨大ないたずらです。
「天空の城」堀越峠からの郡上八幡城撮影についてのおねがい
雲海に浮かぶ「天空の城」として多くのカメラマンを魅了し、「死ぬまでに行きたい世界の絶景」にも選ばれた堀越峠から眺める郡上八幡城。
朝霧が発生するシーズンにはその撮影地点でもある「堀越峠 (国道256号)」に、大勢のカメラマンが押し寄せ、さらに路上駐車が連なって、非常に危険な状況が生じております。
撮影地点は、対向車を見通すことのできないカーブであるため、数台の車が路上に駐車すると見通しが遮られ、また対向車とのすれ違いもむずかしく、通行する車両にとっては危険な状態となります。
この国道256号の堀越峠は、道幅も狭く、急カーブの連続する山岳道路で全線にわたって「駐停車禁止」の道路となっており、さらに近隣の市町村を結ぶ主要道路として比較的交通量も多い道路でもあります。
どうかくれぐれも交通ルールを遵守していただき、車線には駐停車をされないようお願い申し上げます。
また道路上に三脚を立てて撮影をすることも撮影に熱中するあまり、走行する車の前に急に飛び出した、との例が報告されております。安全のため路上での三脚撮影もご遠慮くださるようお願いいたします。
・郡上八幡産業振興公社(郡上八幡城管理事務所)
・郡上八幡観光協会
・郡上市
徳川家康から拝したとされる馬印。城主青山家に伝わる家宝で、10万石の格式を示したと言われています。弓具(弩標)に金箔を施し飾り物に仕立てたもので、行列の先頭に掲げられました。
第2代郡上八幡城主遠藤慶隆が、元亀元(1570)年に織田、徳川が浅井、朝倉と戦った姉川の戦い(近江国浅井郡)で織田信長側について実際に着用したとされる鎧です。相手の攻撃をかわしやすくするために胴の部分が山型になっているなど、戦国時代にあって、装飾より実用を目的とした特徴が見られます。
八幡城主青山家に代々伝わっていた家宝の鎧で郡上八幡城本丸御殿に飾られていたものです。明治維新の際に青山家から八幡神社に奉納され保存されていました。
初代土佐藩主山内一豊の妻千代は、弘治3(1557)年初代郡上八幡城主遠藤盛数の長女として生まれました。千代が5歳の時に父盛数は病死、その後母の再婚、義父の敗北という波乱の人生がはじまります。やがて千代は尾張の山内一豊の許へ嫁ぎます。 一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の覇者たちに仕え、最後には土佐藩24万石の大名にまでのぼりつめた武将。その影には妻である千代の内助の功があったといわれています。旧本丸跡には、城下町を見守るように立つ一豊と千代の銅像があります。
円山応挙の高弟であった駒井源琦(1747〜1797)の作とされ、大作が少ない源琦にあって、縁起である鷹を金屏風に大きく描いた毇6曲2双の貴重な作品です。
慶長5 (1600)年、関ヶ原の戦いの前哨戦となった遠藤慶隆と稲葉貞通の八幡城の合戦の激戦の様子を絵図にしたものです。絵図からは、城の構造や城下町全体がよく分かり、また戦いの武器の多くが刀より槍が用いられていること、さらに鉄砲が描かれているのも興味深いです。
(原画は大分県臼杵市教育委員会所蔵)
遠藤慶隆が八幡城復帰した寛文年間(1660年ごろ)郡上八幡城の大改修が行われました。
その時通称赤髭作兵衛と呼ばれた力自慢の人夫
が城下吉田川からひとりで背負い上げたというふたつの石。(1m×75cm、推定約350kg)
普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息絶えたと伝えられています。 普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたため、以降天守台の一郭に放置されていましたが、昭和8年に模擬城の建設にあたり、この石を現在地(八幡城内門前下)に安置し顕彰したものです。
天守閣建造は険しい山頂の地形から当時の土木技術ではたいへん困難な工事でした。特に土台となる石垣の構築はたび重なる崩壊があった、と伝えられます。
そんな折、 栗巣村(現在の大和町)から切り出して運んだ天守閣の主柱となる檜の巨材が神路村(現在の大和町)までさしかかると急に動かなくなりました。村人総出で木を曳く作業にあたりましたが、その中にいたおよしという娘が手を添えると不思議と木は動き、とうとうおよしは木を曳く人夫や村人たちといっしょに城の築造現場まで来てしまいました。
その頃、石垣の崩壊に頭を悩ませた普請奉行は当時の慣習であった人柱を決め、そのおよしに白羽の矢が立ちました。 里の小町といわれた当時19才のおよしは白のりんずの振袖に白の献上の帯をしめ、城山の露と消えたと伝えられます。
現在、天守閣前にはおよしの霊を祀る観音堂があり、また麓の善光寺にはおよし稲荷があって、8月3日には慰霊祭が欠かさず行われています。そして町の子供たちは城の石垣に向かって「およし、およし」と声をかけながら手をたたくと、そのこだまがおよしの泣き声に聞こえる場所がある、といったようなちょっとおそがい(郡上弁で怖いの意味)伝説を夏の夜に両親や祖父母から伝え聞かされるのです。
山頂の松の丸北側は現在の駐車場として整地されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で、北方尾根を切断する巨大な掘り切りの跡でした。ここには一基の浅井戸があり、「首洗いの井戸」または「血の井戸」と言い継がれています。
慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の首が洗い清められ、首実検に供されたといわれるものです。その真偽のほどは確かではありませんが、慶長の合戦のその凄まじさと、この掘り切りと北の曲輪の険しい地形に守られた城の難攻さを物語るものとして生まれた伝説とも考えられています。
山内一豊の妻千代は1556年(弘治2年)初代郡上八幡城主遠藤盛数の長女として生まれました。千代が6歳の時に父盛数は病死、その後母の再婚、義父の敗北そして流浪、波乱の人生がはじまります。やがて千代は尾張の山内一豊の許へ嫁ぎます。
一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の覇者たちに仕え、最後には土佐藩24万石の大名にまでのぼりつめた武将。その影には妻である千代の内助の功があったといわれています。
有名なエピソードに一豊が「馬揃え」を目前にひかえて困っていたとき、千代は鏡台から10両をさし出して駿馬を買わせ、それが信長の目にとまって一豊の出世の糸口となった逸話があります。
この千代が諸説ある中で初代郡上八幡城の城主遠藤盛数の娘であったという説が有力であり、現存する遠藤家の系図には「盛数の娘山内対馬守室」(妻の意味)と記されています。
「功名が辻」原作者司馬遼太郎氏が日本で一番美しい山城と評した郡上八幡城や旧本丸屋敷跡に、城下町を見守るように立つ一豊と千代の銅像。郡上八幡城天守閣や郡上八幡博覧館では期間中「一豊の妻千代特別企画展」を開催中です。また千代のゆかりの場所である慈恩禅寺や宗祇水をめぐり歩く「千代めぐりモデルコース」(徒歩3時間)が設定されています。
城山頂上の郡上八幡城の天守閣へ登る江戸時代の4本の古道でそれぞれ山の東西南北に1本ずつ位置しています。
東からの登り道は小野坂。郡上高校グランドの端からなだらかな上りがつづき、北からの登り道である車坂とは山の尾根で合流します。北から登る車坂の名は築城の際に石垣の石や資材を車で運びあげたことに由来し城山トンネル脇の上ヶ洞八坂神社がその登り口です。
南からの道は城山の崖が吉田川に迫り出した小坂歩危と呼ばれる新橋のたもとからはじまります。悟竹院の境内をぬけ鐘楼の横をすぎると道は鬱蒼と繁る照葉樹林の中に入り、絡まった木の根を踏みながらの登りがつづきます。城山の山容を町から見上げると分かりますが山の南側が最も険しい切り立った崖になっているためです。
西からの古道は現在の自動車用の道路が建設された際ほとんどの部分が寸断されその下に埋められてしまいました。車で登頂すると途中で数ヵ所に自動車用の道路と垂直に交わる崩れかけた石段を見ることができます。それがそのなごりです。
いずれの道も上り口から天守閣まで20分ほど。野武士が途中で潜んでいるような雰囲気のある山道を歩いてみるのも旅の一興かと思いますが足もとには十分な注意が必要です。公園内とはいえハイヒールやサンダルでの古道の登頂はお奨めいたしません。
郡上八幡の城下町としての歴史は永禄2年(1559)に遠藤盛数によって八幡山に城が築かれたことにはじまります。時は室町時代の後期、戦火のくすぶる時代でした。
4代城主遠藤慶隆は城下町の整備に力をいれ、神社の建立や寺院の開基につとめました。またそれまであちこちで踊られていた盆おどりをひとつにして城下で踊ることを奨励し、人心の懐柔をはかりました。これが現在の郡上八幡の観光の基礎となっています。
その50年後の承応1年(1652)城下の片すみで起きた火事は、折からの風にあおられてまたたく間に燃え広がり、町全体を焼きつくしてしまいました。
6代城主の遠藤常友は寛文7年(1667)、焦土と化した町を綿密な計画のもとにその復興を手がけます。まず4年がかりで小駄良川の上流3キロから水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横にはしる水路を建設しました。
これは生活用水であ ると同時に大火を繰り返さないための防火の目的でもありました。また近在の寺院を城下に集めて「八家九宗」を形づくり、辻のつきあ たりに配置して戦時のための防禦にあてました。通りのつき当たりに寺があり、道の両側を水路が走るという現在の町の景観の特徴はこの頃の名残りを伝えるものです。
宝暦5年(1755)郡上藩で大規模な農民一揆が蜂起します。過酷な重税にたまりかねた農民たちが決死の覚悟で幕府へに直訴、駕篭訴をくりかえし12代城主金森頼錦をお家断絶へと追い込みました。これが有名な宝暦騒動で、わが国で最も壮絶な一揆といわれています。
宝暦9年(1759)青山幸道が13代城主として入城し青山家が7代にわたって、明治維新まで続きます。東京 港区の青山の地名は江戸時代に郡上藩の江戸屋敷があ ったそのなごりです。
幕末から明治維新(1868)へたどる激動の時代、官軍側につくか徳川方につくかで選択をせまられた郡上藩は二分極の政策を同時進行させました。つまり藩は官軍に付く姿勢を表面に出しながら、脱藩者の名目で43人の若者たちを白虎隊の援軍として会津に送りこんだのです。これが郡上凌霜隊でした。
徳川の親藩でありながら、時代のうねりには逆らえないことを悟った山国の小藩の苦渋の決断でした。歴史の流れのはざまに翻弄された若者たちの純粋さと悲劇は歌やドラマになって今に伝えられています。