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小京都の寺めぐり

郡上八幡は狭い町ながら13もの寺院が甍を連ねます。郡上八幡が「小京都」の異名をもつゆえんです。

桜、もみじに蝉しぐれ。四季それぞれに心やすらぐ旅のひとときがここにあります。

お寺 = お寺 お地蔵様=お地蔵様

 

寺慈恩禅寺

慈恩禅寺

1606年(慶長11年)、時の郡上八幡城主遠藤慶隆が開基となり、妙心寺円明国師の高弟半山和尚を迎え、釈迦如来を本尊として創建された古刹です。
遠藤氏と金森氏等の遺跡や重文を多く保存し、山内一豊の妻である千代の出生についても不明とされていた部分がこの寺にあった家系図によって明解にされたいきさつがあります。

ここが見どころ

名勝の庭園である莖草園は東殿山麓の巨岩をそのまま生かした室町様式の禅宗庭園。
つつじの刈りこみや池をおおう楓の大樹が美しく、静寂の中を滝の水音が響き幽玄な雰囲気が漂います。
特におすすめは5月の滴るような新緑と11月の紅葉の季節。

拝観料:300円

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寺最勝寺

最勝寺

親鸞聖人に帰依して直弟となった専修により開基され、1489年(延徳元年)に郡上郡市島村に堂宇を建立。
その後1624年(寛永元年)に郡上八幡城主から寺領を与えられ現在地へ移りました。

ここが見どころ

手入れの行き届いた青松の中に本堂、太鼓楼、書院などが美しく配置されている境内。木造建築の粋をあつめた豪壮な山門も見逃せません。

また庭園は現在修復工事のため未公開ですが枯山水と築山泉水庭のふたつがあり、共に池泉回遊式と座観式を兼ねそなえたもので明るい開放感のある庭園です。お隣の慈恩禅寺のお庭が深山幽谷を思わせる庭園とは好対照。

また立町通りから山門に向かう路地は最勝寺大門(だいもん)と呼ばれ短いながらも家並みの美しいところです。ちなみに1本西の日吉神社に向かう路地は宮大門と呼ばれています

 

寺大乗寺

大乗寺

1603年(慶長8年)に郡上八幡城主遠藤慶隆によって中世の尾壺城跡であった現在の地へ堂舎を建立し開基。

鐘楼を兼ねた山門は幾多の大火をくぐりぬけた1804年(享保4年)のもので重要文化財の指定をうけています。

ここが見どころ

小駄良川の清流をわたると市街地とは隔絶した感のある緑深い伽藍。

秋は境内の紅葉も見事です。山門をくぐるだけで静けさにこころが洗われる思いがします。

 

寺長敬寺

長敬寺

鍛冶屋町、職人町のつきあたりに見えるお寺で、郡上八幡の城下町の特徴ある景観としてしばしば写真などに登場するお寺です。

1601年(慶長6年)に郡上八幡城主遠藤慶隆により東常縁の玄孫にあたる正勧坊正欽を招請し当寺を創建して遠藤家の菩提所としたのが開基とされ、境内には遠藤慶隆の墓所があります。

ここが見どころ

郡上八幡には春の桜に彩られるお寺は遍照殿、安養寺、洞泉寺とたくさんありますが、ここの本堂前の枝垂れ桜は紅桜として異彩。若木ですが「娘ざかり」という形容がぴったりの濃いピンクの華やいだ美しさを誇ります。

 

寺悟竹院

悟竹院

1521年(大永元年)に開基という開山以降22代を数える曹洞宗の古刹です。

1881年(明治12年)秋葉総本殿可睡斎より秋葉三尺坊大権現分身を請し、郡上の火防守護所となってから市民からは「秋葉さま」の名で超宗派的な信仰をあつめています。
境内に威徳堂、豊川堂、太子堂、地蔵堂等があります。

ここが見どころ

早朝6時に始まって1日4回時を告げる鐘の音は、明治時代から100年以上にわたってただの1回も欠かすことなく続いている郡上八幡の自慢のひとつ。
町の人々の暮らしの中にすっかりとけ込んでいる刻(とき)の鐘です。

 

 

寺洞泉寺

洞泉寺

郡上八幡城主遠藤常友によって本誓寺然誉を招き、知恩院の末寺として開山されました。
その後1759年(宝暦9年)に青山幸道が郡上八幡城に入部すると、このお寺は青山家の国元における菩提寺とされました。

 

寺安養寺

安養寺

1256年(康元元年)親鸞聖人の直弟である西信が近江の蒲生郡に堂を建て安要寺とし、後に美濃に転じてから蓮如の命により安養寺と改められました。

郡上八幡へは城主井上氏の入部とともに移転。浄土真宗の布教の展開により「郡上御坊」の呼び名で隆盛を誇りました。

ここが見どころ

郡上八幡の家並みの中にひときわ目を引くのが間口、奥行きともに16間という壮大な本堂。木造の建造物としては岐阜県下で最大のものといわれます。

また宝物殿には700年以上にも及ぶ長い由緒をかたる寺宝の数々が収められており「狩野山楽による親鸞聖人絵伝」や「蓮如上人真筆」が代表的な展示物です。

遠郷山安養寺宝物殿は入場料:300円(木曜日休館)

 

お地蔵様犬啼水神

犬啼水神

湧き出る水の上に安置された2体の水神は市街地の東の犬啼谷から出土したものです。

1861年(万廷2年)、この年の夏はたいへんな猛暑で時の藩主青山幸哉も藩民の健康や疫病の流行を懸念していた矢先、幸哉の奥方が病床に臥されてしまいました。

当時の寺畑村の古田栄左衛門は日の差し込まない深い谷底に良質の水が豊富に湧く犬啼谷で冬の間に氷を作り氷室で貯蔵していました。それを奥方に献上するとたちまち快方に向かいました。幸哉はこの善行に銀5メを送って称え、犬啼谷に氷田んぼを築いて天然氷を作ることを奨励した、と伝えられています。

この氷田んぼはその後大正時代まで実際に使われていましたが、土砂崩れによって崩壊しました。

1955年(昭和30年)に郡上八幡の上水道の水源をこの犬啼谷の天然の湧水に求めて貯水槽工事の作業をしていたところ土砂の中から2体の石像が出土しました。

これが現在祀られている犬啼水神です。いつの時代も変らぬ郡上八幡びとの水への感謝と奉賛の気持ちの表れとしてここに安置されたものです。

 

お地蔵様神農薬師と馬頭観音

神農薬師と馬頭観音

1781年(天明元年)に安置奉安された薬師如来で商売繁盛の他、諸難諸病を取り払うとして信仰があつく、7月第3土曜日には例祭が行われます。

1990年頃にこの洞窟の右側のコンクリート壁面に高さ5メートルにわたって地下水によると思われるシミが浮き出したことがあります。それが偶然にも薬師如来の姿になり(見え)、左手に持つ蓮の花まで鮮明に認められたそうで、折からテレビのワイドショーブームがこれに油をそそいで、「昭和の奇跡」と大きく報道されたことがありました。

また神農薬師から右側へ40メートルほど坂を下ったところにある3体の観音像は馬頭観音。

城山の崖が吉田川へ迫るこのあたりは小坂歩危(こさかほぎ)と呼ばれる難所で江戸時代には馬や荷役の牛が崖から落ちる事故が絶えなかったため往来の安全を祈念して安置されたものです

馬がお祀りされていることからお詣りすると競馬に当たるという俗信もささやかれていますが果たして真偽のほどは…